pesce2004-04-02

 桜肉をつまみながら久々に目黒川沿いのKANという和食屋に。あ、玉子ご飯食べるの忘れた。それにしてもやはり橋の上から見る桜花の霧は壮観。散って足下に吹き寄せられた花弁からたちのぼる香りにノスタルジー。25年前の、大阪池田の五月山公園というごく個人的な。リマインダーとしての桜。
 桜といえば昨年の今頃にオーストラリア大使館を使って行なわれた劇団解体社の"Drifting View X"は、二日とも呼んでもらったのにどちらも遅刻してエントランスホールから舞台が中庭に移るところからしか見れなかった。けれどこの中庭にある巨大な桜がライトアップされていてこれを見るだけで勝手に満足してしまっていたところもある。かなり寒かったと記憶している。戦争がおこっている(殺スナ、のデモの翌週だったと思う)状況とそれを題材にしているパフォーマンスの舞台装置が桜、そして他国の大使館。感覚と感情それぞれの軽い解離が起こって、その統合には思考による軽い準備運動が必要とされるように思い、アートと言うのはそういう装置なんだなと改めて感じた。
 パノラマビュー(舞台、また戦争の)も酒も解放の装置として手軽だけれど問題はその後の収束、線を引き直すことへの耐性を鍛えてあるかどうかなので、元の場所へ還ってきてしまうだとか酔い続けていなければやってらんね、とか嘆きつつ安住するよりも次の場所へと移動するだけの脚力をもちたいね、ほろ酔い加減の時だって。