諸々と

 書こうと思っていた事を飲み込む今朝。つうか、あれです、今回は時差ボケはひどくないけど体調が悪過ぎる。細菌類に全身負けている感じで抵抗力がガク落ちしているのがわかる。というわけで、二日連続で強制終了睡眠をかましては朝5時台に起きてみる。昨日はパリの友人にバースデーコールをするのに丁度良かった。
 予想した通り、現状自分の関わっている仕事関係は全てABCのことでの影響甚大という感じ。話題に出ないところがなく、具体的な被害話もそれぞれに。でも、復活しそうですね。どういう形なのかは、わからないのだけど(ッて言うかそれが一番大切なんだけどな)。
 だれかの掲示板でブックセンターについて「青春の香り、こう自分が何かに詳しくなり始めた高校生くらいの時に通っていたような」とかそういう記述を見たような気がしたけど、だから詳しくなった今は、ああいったぬるいセレクションだと物足りないのよーっていうことだろうか。卒業していくべき場所と言う事だろうか。だからこそ、立ち戻っていた場所だったのかと常に全てについてアマチュアで、高校生マインドな物事への関心のもちかたでしかしハイティーンから遠く離れた年代の私なぞは思う。
 あの書店のセレクトは甘かったし、時代とずれていたという指摘は「だから潰れたと言う事がそれを象徴しているでしょう」という所に還元されがちだけど(厳密に、業界の目から見た棚のクオリティのじり貧具合は差し置き)そうでもないと思っている。「ああいった、80's的幻想ドライブが無効となった」*1というのは昨今の状況から突っ込みやすい点かもしれない*2。けど実際の所、あの場所は自分にとっては何の幻想でもなんでもなく、現実として世界への窓であり続けた。映るものはうつろえども。
 鍵のかかった部屋への、鍵を入手する年代と立場となって鍵束をセレクトしてどこかへの出入りはするようになっても、窓を覗くその行為が私はいまだに好きだった。
 個人的にいうと昔と買い方がかわったかというと実はそうでもない、というのが実際で、アマゾンでバカがいする事も年に数度あれど、基本的にはお金の落とし方はABCにたいしてはずっと平均していたなぁという感想がある。ごつい美術書は別の場所で買っていたし、文芸系はあまり買わずに図書館か古本で読んで、それから手元に置くものは買いに行くけど冊数はそれほどなかったし。雑誌ばかり買っていて(それでも数万円になることもしばしばあったけど)、こう、眺めに行く場所であった。89年頃から15年近くずっとそういうスタンスではあったし、その間に隣の客が「卒業」されても次の世代がやはり常に隣では同じく棚を眺めていた。
 結局、10代の頃からこの窓を覗きつつプロにはならずに踏みとどまっている、いち紙媒体ファンにとってはこれで何かが終わったなどと喧伝される事は現実味より胡散臭さというか各自の何かしらのコンプレックスを良い機会にぶちまけられてるみたいでキショクワルイ。いや出版不況についてのことは別よ、今回の件についてついてまわる、特殊な諸々の思惑と幻想についての話し。

*タイトルは一郎先輩の所からお借りしましタ

*1:で、仲俣さんの所でコーヒーテーブルブック、と書かれている高額な写真集やアートブックみたいな直接的にバブルな書籍の売れ行きが鈍るってのはもう90年代中盤くらいからのことだったのではないんかな。そうなってからはちゃんとその手のものが減り、「アート」よりも「クリエイティブ」みたいな方面の広告・デザイン関連にシフトしていた、で、買われていた。これは自身の目で確認されていた事実。それでそれまで来ていたコアなアートファンなんかは遠ざかって専門店に向ったという事になるけどそう売り上げに影響するとも思えない。そしたら専門店がもー少しくらいバブッて良いはずだ

*2:と、いうか個人的には別に80's的なバブル残滓は青山本店に関してはあまり感じず、どっちかちゅうと90'sの良きにつけ悪しきにつけ空気感の根城みたいなもんを雑誌棚から拾っていましたが。