『ぼくたちは/何だかすべて/忘れてしまうね』

 昨夜、O嬢に突然プレゼントされた岡崎京子の短編小説集(?)だけどまだ読んでいない。「自宅とかで読まないほうがいいと思うよ」と不穏なアドバイスもつけられて渡されたので、外で読もうかと思っていたら一日中、全ての時間が拘禁されたままで自宅まで辿り着いてしまった。渡された瞬間に著者名見る前に「わぁ、フッシュマンズだ90年代だ!」と喚いたのだけど、まあ名前見て「当たり」と思った。大学三年の5月だったか、引越しのため半月ほどご無沙汰していたOn Sundaysに立ち寄ったらSさんがやってきて「岡崎さんが昨日、トラックに轢かれて意識不明だって!」と、興奮気味に話し、そういえば会ったことはなかったけどご近所だった事と高校生の頃に連載で読んでいた『リバーズエッジ』のギブスンの引用の回、発売日に友人(男子、当時27歳。ボンクラサブカル崩れ)が電話をよこし「あれ、ヤバいね。マンガじゃ無くなったね、アッチいっちゃったね」と騒がれ、お前はどこにいくんだこの無職、マンガ読んでんなら職探せボンクラ、と応酬した記憶などを思い起こし、しばし茫然とした。
と、いう日を彼女の名前を見る度によく思い返す。(わかりにくいなぁ、オイ。)
 多分id:ykuriharaさんが昨日書かれていたオザキ(一文字違いですね)のように、今の20代前半くらいの世代にはもうピンとこないものの一つだと思う、岡崎さんも。どういったマジックが起きて、この適当に殴り描かれたような線の、勝手で我侭な登場人物達のこの現実的過ぎる、説明を省いた物語をある時代やある世代は原風景として受け入れたのだろうかなんて。
 でもピンとこないにせよ来るにせよ、私たちがある種類の古い小説群を押し付けられずとも読んでは、書かれた時代には想定されなかっただろう考えや驚きや知恵を読み取るように、彼女の作品はどう言った形かで読み継がれていく種類のものだろうと夢想する。て、いうか本読めよな私。読みはじめると一瞬で読める、とO嬢談なのでまあ週末にでも外で茶を飲もうと思います。