でさ、

 その個々の文章の成り立ちのバックグラウンドと言うか、そりゃあ生育歴文化歴は当然の反映を見るものですが、こう、フィルターがかかりはじめるころまでの傾向ってある程度、誰でも大衆的なものじゃないですか。その時期の違いって言うのはもちろんあって、それが数年違うかどうかにコンプレックスを持つとか差別意識を持つというところなわけだけど。なんか、むかーし、ガラスの十代後半に、なんかの雑誌で『20歳になるまえに山田かまちの作品を見ないとダメ』みたく書いてあって、その手の思春期神話みたいなのをウゲーと思った私も14歳の時には銀色夏生を購入していたわけですよ、勢いあまって学級文庫に継ぎ足したりしてナ!
 で、もちろん今の私の語彙の中や文章リズムには絶対反映が見られると思っているのだが、『君のそばで会おう』とか『Go Go Heavenの勇気』とか、そういうのは、もう紡木たく、くらいのノスタルジアでしか語られないのかな。いやこれも時期が被ってるってだけで出してるわけですが。『机をステージに』とか二個うえの先輩がバンドの曲名にしていましたね。
 しかし、ある程度フィルタリングかかかるまでの蓄積の中に組み込まれたノイズはその後どう言う方向に舵を切られても、吸入された当時の感受は消し去ることはできず、場合によって否認される形で表出するにしてもやはりかなりダイレクトにドライブかかるというか、レコードを買っている今日もって言うか。だから私が萩尾望都小山田いくを同時に読んでいた小学二年生のころとか、親が中島みゆきの初期ばかり聴いていて、その他は谷山浩子さだまさしというレコードラインナップだったとか、そういうのも中学二年でJ-WAVEが開局してコステロ聴くようになってトムウェイツとヴァンモリソンとヴェルヴェッツ聴くようになって、でも同時にオフコースも買ってるとか、そういうのが混ざった上で出てきても気にしないで欲しいと言うか。あ、これは歳食っただけかもしれないな、まあいいや。
 えーとあといいわけさせてもらうけど、いま、まじぐらんぐらんに酔っぱらってるから。あの、色々許して。ネットに色々書き付けてなんか解放されたような、口にできない癖に解ってみたいなそういう甘えを! なにとぞよろしくご査収を!