予め用意された廃墟について

pesce2007-02-27

 以前に建築の雑誌にいた頃、ちょうど会社の脇にすくすくと53階建てのビルを中心とした丘が作られていくのと、研究所をつぶして国立の美術館が作られる更地とを見ていて、汐留とか愛宕とかあっちこっちに生えていくそれらを観ながら(汐留なんかは10年前の国鉄用地売却の際からみえていたこととはいえ)表題のようなことを考えずにはいられなかった。今は弊社の近くだと東京駅の向こう側の景色が上海みたいだと思う。それでもミッドタウンに足を運ぶ、仕事と、興味。
 週末に撮影がありスタジオのある運河沿いへ出向いて、林立する高層マンション群に唐突に血が引く感じ。ビル風が強く寒い日だったのでよけいに悲壮な感じを強く受けたとは言え、まず思い出したのは南仏マルセイユからパリへ向かうTGVの窓から見える景色。それは先々週に訪れた鎌倉館での直哉さんの作品にもあった光景。説明を見るまでもなく、一回しか通ったことのないその景色を思い出した。移民たちのために間に合わせで崖にどんどん建てられた高層住宅群、少々、香港の空港から街へ行く眺めにも見えなくもないけれど色味と紛れ込んだ教会らしきヨーロッパ風の小さな建物ひとつですぐわかった。都市を形成することすらできないそれら集合体、多くの人の生活、人生が詰まったそれ。一瞬、彼と同じファインダーを覗き込んだ気になって、少し嬉しくもあったけれど。Draftsman's Pencilというタイトルの明解さ。目の前の光景に対して貧しい、という言葉がが口をついて出て、自分がそこに対するアプローチを持つことは不可能ではないはずだが、としぶとく思う。同時に無力さも。
建築家のお爺さんが都知事になりたいという話を聞く*1。都市に引かれる線が、これ以上、欲望に流されませんよう。創作と破壊はバランスを持って行われなければ。自然の鉛筆、目を合わせて喋ることのできる人々の引く線を待っている。

*1:ちなみに新美術館での展示の最後にはこの人が顧問をやっている団体を思い出すような見事な和装に帯刀のポートレイトが飾ってあった