六本木COMPLEXビル

pesce2008-02-24

23日の夜、芋洗い坂の下・ケヤキ坂の下(の少し先)のCOMPLEXビルに強風の中、急ぐ。途中、元東京ランダムウォークストライプの跡地がいまだ看板を取り外しただけの姿を見せていて2002〜2003年の間の記憶が片端から思い出される。当時、建築系の雑誌編集をしていた自分は、街の記憶や新築されていく廃墟のようなものをよく考えていた。この期間に一番直接交流のあったペヨトルの今野氏から聞かされていた「かつてあったものたち」を自身の経験のように幻視しながら六本木ヒルズオープニングを迎え、東大研究所跡地(現・新美術館)越しに掲載用の森タワーを撮影した。そして今日クロージング・パーティが行われているCOMPLEXもこの頃に産声をあげ、同じ雑誌のために同じフォトグラファーとともにその数日後、道向かいのスナック集合ビルによじ登ったりした。その前年は仕事の合間を縫って西部講堂のペヨトル解散やら佐賀町食糧ビル・クロージングに足を運んだ。尽きることない始まりと終わり、実際私はこの雑誌を辞めた翌年には復刊夜想に関わっていた。またひとつの場所が閉じるのに悲しさはない。感傷的になるにはパワフルすぎる人々と表現がこの日もあふれていた。個人的にあの頃との一番の違いは、喪失などそう簡単に起きないことを経験で叩き込まれたことだろうとビルの階段にたどり着く頃には考えていた。
もんすごい独り語りを失礼、ただ自分でいまさら驚いたのだ。

一階のバー、TRAUMARISは数えるほどしか足を運べなかったけれど、会いたいと思っていた人と出会えるちょっと自分には特別な店だった。最後の日までそうだった。そういった場所がひとつなくなるというのは残念だけれど、その人々との繋がりはまた強化されて新たに生み出すきっかけにもなる。『フクヘン』鈴木氏のブログでのこの集合写真で現場の空気が伝わると思うけれど、この人々の素晴らしいしぶとさ(笑)がこんなことで雲散するはずがない*1。偶然同席した内田真由美さんからもotaや小柳のようにギャラリーに個人名をつけるアイデアが生まれたとき、などコンテンポラリーアートに関わるこの世代の人々の話を聞かせてもらう。そして久々にお会いしたアートコレクター&精神科医の岡田聡さんは、これからの時期、芸大の卒展や講評にあえて自主的に出席して回るという。単純に、新しい才能を見つけたいからなのだと。私自身、芸大のクラスを持っているけれど未知数の才能を評価して発掘していく仕事はそれだけでかなりの気力が必要だと感じている。さらっと、この話をされて鈴木氏と向かいに座っていた私は正直唖然とするほど驚いていた。
この日は、昨年ある展示会の抽選で当たったグランドハイアットの宿泊券が月末で期限切れするのもあり、グランドクラブルームに部屋を取っていて避難所にあてていた。混み過ぎた時間帯に一度、見知った数人で部屋に戻り食べ飲み待ち合わせ、深夜に再出動という贅沢? な使い方を。こちらには小崎氏、津村氏、宇治野氏、鈴木氏、トースティ、文春清水君、という面子。書けない話はいつもどうしてこんなに面白いのか。店に戻るとチエさんから「このランチキども」と呼ばれる(笑)ヴーヴをボトルでオーダー入れたまますっかり忘れて部屋に戻っていたのだった。前述集合写真のみなさまとのカンパイ用にする。店は立ち飲みであと数日営業される見通し? ケヤキ坂の帰り道、同行者が同時に笑い出すほど冷たい風に打たれつつ話は尽きず昼まで。新しく始まる音に耳を澄ます、東京の強さを見逃さぬように。

北館入り口。レントゲンヴェルケなどがこの上。

六本木経済新聞*2が取材に来ていたので近々この記事のフォローがでるかしら。

*1:この撮影時に私はカメラの右脇にて便乗撮影、が、うまく撮れなかったので引用させていただきます……。で右半分は昭和40年会どころか30年代会?(笑) さりげなく上のTARO NASU写真の中央で背を向けているのはpesce本人。コドニエ氏と再会の挨拶中。こののち階段の昇降のせいか筋肉痛になった。

*2:経済新聞シリーズは地域の担当者によって興味の対象が色濃く出ているのが微笑ましいところで。六本木は以前にスパデラでのヤン富田イベントも紹介されていたのでちょい地下寄りアート&カルチャー好きがやってるんだろう。銀座は画廊系と飲食強し、シブヤは大元なので偏りなくポータル的に充実した感じ。すごい勢いで地域数が増えてきているが多くはほぼ個人力でやってる感じなのでそれはそれでおもしろい。