Bauhaus, experience,dessau @東京藝術大学大学美術館

pesce2008-06-25

相当久しぶりに上野へ。というか、なぜだかとても遠いイメージがあって避けていましたが銀座線! 自宅からも会社からもほぼ一本でいけますよ。魅力的な企画展を今までいくつも目にしつつも、あと企業のパーティなどがあったりしても、遠いのでという理由で行かないでいたことが悔やまれます。多分二年位前に母に連れられて鑑真和上像を見た記憶があります。で、なぜ思い立ち会社から直行してまだ夕日の残る芸大美術館まで足を運んだかというとオープニングを行きそびれていた『バウハウス・デッサウ展』のブロガー鑑賞会という企画があったので、応募したら当選してしまったという。URLまで報告するのでちゃんとチェックされるんだろうなぁ、と思い、テストを受ける気分で応募してみました。(まあコレがなくても行くつもりでしたが)
というわけで上野の森では井上雄彦展が行われていてこれも行きたいと思ったまま、
閉店した聚楽の看板を横目に急ぐ。夕方17時過ぎからの受け付けて19時まで。
まあ普通の美術展のレセプション的時間帯だけれど、本業と関係ないので仕事から直帰で18時過ぎに辿り着く。
オープニングをはずすと撮影などできないので、まあこれもよし。入館するとけっこう、混んでる。
バウハウスについては昔在籍した雑誌での特集もあったし、単発仕事で何度か触れていたり、
ということで、誌面に反映されずとも相当資料は漁り、興味は通奏低音のように私の建築観の底に流れている。
まあその結果、産業革命後の反動と同化の過程に、戦争という時代の偶然がそれを中断させたとは言え、
バウハウスの運動自体はあのタイミングでの収束で良かったのかもしれないと思っている*1
さて、しかしこの展覧会、タイトルが"Bauhaus, experience, Dessau"である。
地域との共存や、その手法や理論の深化、実験と実現というデッサウにおける幸せな一時代でもあり、
グロピウスからミースに委譲される過程と背景。そこで際立つそれぞれのマイスターたちの個性や志向。
それらの資料とともに「体験」がキーワードとなっていることに惹かれたのだ。
芸大の敷地内にあり、学生たちも多く訪れるだろうこの場所での開催、美大で一応教鞭をとる身として興味深く訪れた。
基本的にはデッサウ時代を中心にした、バウハウス運動全体の解説もあり丁寧な展示だが、
ともかく物量が多い。立体、平面ともにオリジナルの作品が相当量あり、ジャンルもバウハウスで扱われたものは
ほぼカバーしていたんではないだろうか。プロダクツや建築はもちろん、芸術絵画、実験映像、舞踏のステージ記録、
色彩実験、そして弾圧によりこの運動を終結させるに至る学風と思想についても。



少し残念だったのは、先に聞いていて期待していたグロピウスの校長室1/1スケールの再現というもの。
ディテールについては素晴らしかったけれど、普通の展示から地続きになっているよりも、
壁を作りドアを開け空間に入るようなものを想像していた、いやドアがなくても
せめて室内空間として閉じて世界を完成させていて欲しかった、というのが感想。
というのも写真でしか知らないけれどその壁面には額装された絵があったはずだし、
何よりバウハウスの理念が凝縮された「部屋」というセルを体験したかった。


とはいえ、そこに足を踏み入れることは、それまで通過してきた数多くの作品群と、
それを指揮してきたマエストロ・グロピウス校長とともに呼吸する幻想をくれる。
グロピウスの宣言の中にも含まれる、「バウ(建築)とは全ての工芸家の手から新しい信仰が結ぶ象徴のごとくして
天上へと向かう」究極の目標は建築であり、それは中世の大聖堂のメタファーとしての総合芸術でもあった。*2
その作品に表現されるモダニズム、機能主義などとは矛盾するように聞こえるけれども、
しかし現代の総合芸術を目指す、という中でその乖離自体が思考や実験のふり幅を大きくし、
多くの議論、実験、表現へと結実したと思う。そのグロピウスを核として現代までも響くバウハウスはデッサウで育まれた。
そして時代背景を契機とし、より表現・機能へと重点を移したミースへと校長の座はバトンされていく。
残念ながらファッショ体制の本格化につれて、デッサウ校の閉鎖、
私立バウハウス(ベルリン)も短命に終わるが、ミースらアメリカに亡命したバウハウスのマイスターたちの
その後の活動は、アメリカから日本にまで戦後伝播していくことで、影響力とその浸透を知ることができる。
ブリュッセルに移住した建築家の友人と、ケルンにてバウハウスについて話す機会があった。
彼は「極限までそぎ落としたような機能主義、というものの反動がここ数年ずっと来ているという意味で、
参照点としてのバウハウスが今取り上げられがちなのではないか」と言っていたが、
このデッサウの展示を見る限り、代表作として残されたもの以外に数多くの機能と芸術の狭間に残るものたち、を
見ることができる。パウルクレーやその影響を見られる学生たちの織物作品、モホイ・ナジ、
そして舞台芸術の作品たちを見る限り、先のグロピウスの思想のような「機能の上に立つ、
教育できない神聖なる芸術や、機能からはみ出してくる一番重要なもの」に対する意識は
技術の習得をある程度終えた学生やマイスターたちの中に必ずあっただろう、と返した。
最後に、窓のある空間にて学生たちによる映像実験のビデオ上映のようなものが
ささやかに行われていた。多くの討論や試行錯誤の海を越えて来て一息つくようなビデオラウンジでは、
多分戦後に再構成され撮影されたバウハウスでのバレエやダンス映像を中心に流していた。
ここから大学の門と中に急ぐ学生たちが見え、いまここの経験とこれらの経験とを彼らが橋渡り、
80年前から手渡された優れた資産、手紙。これを受け取れるといいと眺めていた。

*1:というのもインターナショナルスタイルと言うグロピウスの生んだ概念は左傾思想としてナチスに叩かれることになるが、あの密度で運動が進んでいけばいずれ戦後の政治環境の中でイデオロギー闘争など本来と関係ない場での自壊がありえた気がしている

*2:つまりはバウヒュッテが元になるのだけれど、これについては詳しくない。北イタリアの教会建築技術者ギルドのようなものだったと思う。技術の伝達などに神秘主義的なものや秘密と結束が強くそのひとつの石工バウヒュッテからフリーメイソンが生まれたという話も読んだ