アリガットサヨナラ

 先日休刊したArigattのパーティを覗いてきたけれど微妙に知ってる顔のいない流れ。年齢層的に少し上めなのと、他誌の編集者や普段かかわりのある一般誌のライター&カメラマンはいなかった感じ。Arigattは、レストラン業界誌でありながら一般読者も視野に入れた見栄えのする写真とデザインやキャッチで、出てきた頃は目を引いたものだけれどやはりパクられたりしているうちに埋もれて行き詰まり、という感じかなと想像していた(パクったのは私が元々在籍していた会社)。確かに初期の、しばしば購入していた頃の「何かある感じ」、スペシャルなものは多分消失していたのだろう。FOOD DESIGNやFOODINGをテーマにデザイナーズブロックでトークセッションを打ったのは二年前だったか、それに参加していた際とグローバルダイニングも失速中(際は餃子がそれでも出てるのかな?)の感がある。席を埋めていたのがTDBの他のイベントと違い、革靴にブリーフケースに名刺入れな客層であり、イベントの終わり次第でラウンジにも居残らないザッツビジネスやで、な感じだったのは印象的だった。
 フードビジネスに関しては全くの門外漢だし、自分の雑誌以外でレストランの紹介も食についての記事も書いたことも企画したことも無いけれど、それらの姿を見ていて毎度思うのは「ビジネス」という言葉で個人的な楽しみを切り離すことが礼儀正しいような風潮がエンタテイメント・ビジネスにもついてまわるのはどうかということ。事業を成り立たせるためにオトナの世界は色々ありますが、しかし実際に見てて面白く無い人たちが作ってるものはよくできていても退屈でしかないから不思議だ。カフェだろうがなんたらダイニングだろうが、パワーポイントで作られた企画書から立ち上がった店の味気ないこと。もちろん味気ない店も使いようではあるし(よく知らない相手との打ち合わせだったり匿名性の欲しいシチュエーションには便利だろう)必要性はわかる。けど資本がざっと来てざっと去って行った草一本生えない焼跡のような、あとに置き土産すらないやり口にはほとほとうんざりする。
 食も、音楽も読書も車もファッションも自身にとっては楽しみでしか無いし、だから同時に生活の一部なのでとても大切と考える。そういうごく素朴な立場に結局は戻るけれど、それができないような現実を作りだしてしまう真似に加担したくは無い。