『誰も知らない』in Paris

pesce2004-11-13

 日本では随分前に公開されていたのだけれど、結局なんだかんだ忙しいのを言い訳に見に行っていなかった是枝監督の『誰も知らない』が、ちょうどフランスではこの週に一般公開されたらしい。ポンピドゥの帰りに、たまたま連れがフライヤーのチェックに立ち寄った映画館で上映していたのでそのまま観ることにした。七月に、パリに来た時もカルティエ財団のエルベ氏がえらく興奮気味に「コレエダの作品は観たか? 僕はカンヌで観たけど、とてもファンタスティックだ! 日本人なのに観てないなんて損してる!」とかまくしたてていて、まあ彼は川内ファン(スチール撮影は彼女)だし、逆にちょっと引いてしまった私としてはなかなか行かなかったという面もある。あー、あの、日本の若い、あのへんの感性が好きなひとがほめるのね。うーん、というひねくれ方で。
 外国語字幕で、日本のコンテンポラリーな映画を見るのは九月のヴェネチア映画祭で『珈琲時光』を観て(この時は、イタリア語字幕に、英語の電光掲示板字幕付き)以来だけれど、訳され方が気になってなかなか落ち着かないものだと思う。まあ、あと自身のその外国語に持ってるニュアンスのずれとかも気付くので面白くはあるけど距離感はでる。やはり多少エキゾチックなものとしてみる視点も入るし、何本もリニアに感受の線が走って忙しい。笑う箇所とかは意外とずれないし、YOUのあの独特の喋り方は意味の細かいところはさておきニュアンスとしては伝わるらしい(これは翌日に夕食をともにしたリベラシオン紙の映画担当と話題になった)。
 映画自体は、いくつも感覚として刺されるものがあってチクチクとしながらも、映画のあいだ子供たちのパラダイスを共に過ごすことができたと感じた。闖入者としての視点にならざるを得ないにしても、一緒に遊ばせてもらった。
 私の個人的な経験として、以前の雑誌で『子供の家』(と呼んでいたが、某バカドリル系漫画家さんとともに、ひとんちにお邪魔して、お子さんに自分の住みたい家を描いてもらう。対象年齢は3才から12才。そしてそのやりとりと解説を漫画家氏が文章にする)という連載があり、毎月色々な家庭の子供達と会っていた、あの時を思い出しつつ、自身の子供時代の体験にもオーバーラップさせるややこしい遊びの時間だった。各層の子供達(自分を含む)が、合間から時折眼差しを送る、それがチクリと来る*1
 この、子供達だけの世界というものの、その内側の結束の強さと外側にある「大人」の世界のズレ、破壊力、特定の悪意などないのに起こる悲劇、という感触は私の年代的なせいだろうが正直、岡崎京子の作品世界を連想する。それも、羽田のシーンなどはどうしても『リバーズエッジ』を思い出さずにはいられなかった。あの作品の中で子猫を袋に詰めて蹴り殺す同級生の、それ自体はなんてことはないはずの熱狂(と、起こってしまう殺戮)は、本当の事件で起きた遊びに来た少年たちによる2才の妹の殺害のシーンと繋がって思い起こされる。子供達にはいつも「今」しかないし、その熱中の天使のような具合と同居する残酷さを、私たちはもう「思い出すこと」でしか体験はできない。

 長くなってしまったので、とりあえずここまで。

*1:何となくでしか知らなかった、1988年のこの事件をあとで調べると主人公のアキラくんは私と同じ年齢のはずである。当時14才だった私はもう東京に住んでおり、中学校教師だった私の母は豊島区の教員だったはずなので知らないはずはない。何かの機会に聞いてみようと思う。もちろん舞台は現在の東京に置かれて作られているのだけれど、この事実から尚更視点が主人公の彼に被っていこうとするのは止めがたい。