年の瀬

pesce2006-12-09

やってる仕事の事についての直接の言及ができないので、なかなか書きやすいネタがないのですよ。副業についてはもっと書けないのですが、仕事しかないのか! というと、最近はそうでもないけど、書いていいことと悪いことがあったり、最終的に誰かのお仕事に関係してきて、えーと100パー仕事人生ですか? と疑いたくなります。
といっても仕事と自分をあまり切り離していなかったり自分自身が切り離されていたりするのであまり関係はないのかもしれませんね。自宅は薔薇の水遣りのことがなければ帰らなくて平気、シャンプーとパヒュームとコンタクトレンズだけ気になりますが、あとは生活の軸と呼べるものもなく。就寝時間、睡眠時間、就業時間、食事の回数と時間、経つ場所座る場所寝る場所、全てどこでもよく。そんな私が自宅を購入しようとしているのは、きっかけは全く血族内のごたごたからですが、心理的にはどちらなんでしょう? という感じです。テストしてみたい部分もあり。自宅を持つということに。
賃貸のマンション一人住まい(途中ルームシェアや同居を挟みつつも)を12年続けてきて、その前も5年ほど両親と同じ建物の別の部屋住まいで、これは別に普通なのだけど時々不思議とどこでもいいのにな、と思うことがあったので。学生時代は雑誌の取材が入る程度にはがんばって作りこんだり(床を自力で張りなおすのが常)、人と住んでいる時は同居人のために居心地のよさを作り出すことが楽しかった。これは母と暮らしていた時代と同じことなのだけど、結局。
昨日、雑誌でネイルをやってくださってるかたのとこで自分の爪を直してもらいながら、働いている女性が言いがちな「嫁が欲しい」発言をその人がしていたので、そっかぁ、と話しているうちに「私は母親の嫁だったな」というところに話しが流れましたね。
幼少時、華美な生活を嫌う母は本当にまあ優等生的に清貧というべきか、合理的で無駄な装飾も見栄もなく美しい生活、を目指しているように見えたものですが、それを口にしつつも結局はお嬢さんの出であり現実的にそれでは生活が美しくなくなる、と危機感を持たされたもので。かつ、ワーキングマザーであった彼女が家政婦を使わず実家にも頼らずやっていくために自分の生んだ子どもをその役目に指名したのは八歳ごろ。夕食を作ることから始まり、掃除洗濯、花瓶の花の世話、外への受け答えや近所づきあいと年齢ごとにそれは増えていき、学校帰りには冷蔵庫の中身を思い出して朝メモを取った買い物リストと合わせて献立を考え、夕食の準備をしてから同級生と遊び親戚関係の電話連絡や近況を伝えたり郵便物の自分で対応できる(支払いや返答)ものは対応して、夜に自宅で仕事や教材研究をするだろう母の休憩をとらせるために紅茶とお菓子を用意した。冷蔵庫のボードに、連絡や行事を書き込むカレンダーを自作して貼って、母の帰宅に合わせて食事ができあがるようにして、そのカレンダーをみながら、今日あったことを母から聞いて新聞の内容の解説を受けて、洗物をしながらお茶を沸かした。
誕生日や母の日には、そっとプレゼントを用意して毎年なにかしら驚いてもらえるよう苦心した。母が人妻に戻るまでそれは続いた、15の春まで。それと時期を重ねるようにして私には最初の恋人ができた。非常にわかりやすいストーリーではある。物語というのは、しばしばこうして必要とされる。