新緑

pesce2007-05-08


よく人間が好きなんだね、とか真面目だねとか言われるほうだけれど実際はそんなことはない。なんのことはなく人は特別なものに対してはたいがい素直で実直だから。具体的な誰かに対する特別な注意が、その先の広い場所へと向かっていけばそれはそれでいいのじゃないだろうか。自覚は必要だけれども。
パートナーの趣味や言葉をそのまんま同化願望的に自分のこととして語るような姿をよく見てきたし、それは美しくないし自分も気をつけねばとしばしば思う。元々、ちかしい人の喋り方や動作、表情が非常にうつりやすい。
多分、見た目ほどほれっぽくはなく、元来男性恐怖症的な気もあるのでは? とは思う。友人は男性ばかりだけれど、性別としてというよりも個人の中の男性性が垣間見える瞬間に立ちすくむ思いがする。この数年その自覚はある、そこに素直に従うとなかなか恋愛状況にありつつも心ここにあらずという難儀な事になる。自分から好きになった異性は生涯でも三人ほど、あとの恋が嘘だったというわけではなく始まりを見てみれば。そしてその成就は一度きりという(笑)、モテてない、無駄なモテはカウントしないと言い続けているけどそういう意味でモテてませんよ。追われて始まっても恋は恋だが振り返りつつの関係は今の自分には負荷が高い、実は。若くして夫婦になった友人らを良い意味で羨ましく思うのは、少しでも長くその人と人生を共にしているから。昔、婚約者が「もっと早く子どもが欲しかったことだけが、人生の後悔かな」と(言いつつ彼はいまだに独身である)。そうは言いつつ船は行く、ショウは続く、走りきって息が切れて座り込むときに、見える景色は決してそう悪くないはずだと思う。そのときに目があった人に笑おう。橋のある街、それとも港のある街でと。ともかく今は。

誕生日おめでとう、他の誰にも会いたくなくて仕事は抱えて自宅へ戻る。同じ街の夜に別々の車の中同じ携帯が交わす一瞬の交信、思い出してくれるなら忘れてくれていていい。

自分の足音が聞こえなくなったら、立ち止まるほうがいいと高校生のときの私がノートに書きつけていた。まだしばらく走れる、ちゃんと聞こえてはいる。薔薇の蕾は全て摘んだ、まだまだ力をつけて欲しいから。容赦なく剪定する、新丸ビルで貰った薔薇の鉢、あれ枯らした人も多いのでは? 翌朝に大量の剪定と土の交換で生き返ったよ。これも花は摘んでしまった。太陽を浴びて初秋のころに咲くといいと思う。