『ニュータウン入り口』

pesce2007-09-30

なぜか編集部にご招待が来ていたので、とびついて鈴木慶一さんトークショーの日を選んで観劇。遊園地〜、は観たことがなかったので良い機会だとも思い、数年ぶりにシアタートラムまで足を運ぶ。ここは野田マップを観て以来かもしれないな。高校時代はちょうど小劇場ブームのような頃で、バブル終焉期でもあったけれど大学生らにカフェバーなどという場所に連れて行かれる傍らで、一人で紀伊国屋ホールとかシアタートップス、モリエールシアターグリーンなんか行っていた。ミニシアター系に足を運んでいたのもこの頃であり、クラブで遊び始めたのもこの頃で、それなりに忙しい高校生活だった。学校はサボり気味で、付属の子達とつるんでいたので「何か悪いことしているひと」というレッテルを世間知らずの良い子が多かった自分の学校では貼られていたらしい。学年違いの子達まで、名前が知れ渡っていたことを卒業近くに知って仰天したものだった。自分にとって当時六本木に行く、というのはシネヴィヴァンかWAVEだったし、新宿なら上記の劇場群か紀伊国屋書店。クラブや飲みは西麻布〜青山だったけれど、不純異性交遊(笑)も特にせず、クラブにいってもNo drugで楽しめるし、恋人は遊び先と別の場所で静かに会っていたので、想像力たくましい無知って怖いわー、と思ったものだった。話がそれた。
ということで小劇場ブームの端くれを見送った自分的には舞台はシンプルで、役者の存在が強いものが好きだった。ノイズの累積からのグルーヴ感が出るようなものが好み。この作品は読み合わせから、舞台稽古的なものまで公開しながら構築していったものだと聞いた。どんな形だったのか、興味はあるけれど、ともかく私が見たのは楽日前夜の完成品のほうだった。ほぼ前情報なし(申し込んだのがずいぶん前で、当日夕方までパルコ劇場だと思っていたほど)でも、話には聞いていた映像リンクな舞台。文章表現では古典的な部類の反復や自己言及の迷路と錯覚を、映像そして撮影する人という装置を使って構造を視覚化して(いるように見え)る。それが純粋にへえーと感心。チェコで見た国営の人形劇場を思い出したり。

主題は神話的視点に覆い隠される歴史の地層。神話という高みからの歴史の捏造と人々に記憶(蓄積)もされないようなニュースや、人工物であるナショナリズムのようなものにすがった幸福の錯覚とか。
最近の興味ごとに近かったので、台本を買う。広場に出たらアルスで会い損なった畠中氏がいた。1123からICCでなんかやる準備が大変、内容は生き物。と暗号を残されたので書き残しておこう。
ついでに一年近く前にララボーフィンの指輪を置き忘れてしまったカレーバー、テラに立ち寄ると22時だというのに誰もいない。誰もいないどころか店主も、文字通り誰もいない店内にiBookからの歌謡曲だけが響き渡り、照明は「ちょっとだけよ〜ん」なフューシャピンクっぽい、赤。なんかのインスタレーションか、なんか芸でもしろという事か、と勝手に悩みそうになり、アドリブ劇でもやろうかしらと思った頃ちょうど店主が戻る。買い物行ってた、と。 なんとなく、ラムカレーと果実酒を肴に、置いてあったぼろぼろの92年の批評空間を読む。ジジェクがユーゴの現状について浅田飴さんなどと対談、みたいな号だった。ちょっと懐かしい感じで読むが、個人的なタイミングは良い。
というのは、登場人物の名前はアンティゴネとイスメネとか(でも双方男)でギリシャ悲劇を入れ子にしてある。そして途中で何度か出てきた「マイムマイムはどこの国の踊りか知っているか?」の答えはイスラエル。冒頭から出てきていたフレーズ「あなたがたは喜びのなかで、救いの井戸から水をくむ。」は旧約聖書の一文でありマイムマイムの歌詞なんだよな。サビ"Mayim……mayim be-sasson"ての。帰ってから近所のユダヤ人の友達に聞いてみたらヘブライ語の聖書持ってこられた。アルファべしかわからないての。ニュータウン、地層を剥ぎ取り埋めなおした、消された歴史への入植者。神話という屋根をを持ち込んで。
うん、喉がまた微妙に痛んできたので寝ます。風邪を引いた。
原稿書き終わったらもう少し整理してみようと思った。明日が楽日なのだな。