受信発信

pesce2007-10-10

知覚するため、目の前の物事を感じ取るため、それはひいてはその自然がそぎ落とされ抽象化され記号や暗号として現れたときにも十全にそして健全に、そのものを感じるそのためにも。
昔から、なにかの感覚を失うことを恐怖症的に怖れていた。視覚、聴覚、触覚からそれらを繋げ一般的に第六感や直感といわれるもの(これは神秘的なものというより記憶と五感の連結がうまくいった場合に脳がはじき出す答えとして説明できる場合が多い。簡単に神秘的な力として片付けるのはそのような本来のものに対して失礼だとも思う)、比較的それぞれ敏感なままいて世界を享受できていたころ。視覚というか視力が落ち始めた頃に最初にその恐怖を感じた、祖母が味覚が落ちると言ったのでガムもコーラも成人するまで口にしなかった。駄菓子といわれるものも、ほとんど。それは父が人工添加物に潔癖すぎるくらい嫌悪をしめしており、子どもたちが喜ぶ真っ赤なイチゴのカキ氷やら棒付きキャンディーのようなものは、手の届く世界のものではなかったためでもあるけれど。
机上で論をまとめるより、実地の実体から来る情報力に勝るものはないし自分自身、能力的には体当たり型なのでどうしても無駄に物事の経験が増える傾向にある。知覚できる面を増やすために更なる経験を求めるということもある。どこにでも出かけ、誰にでも会う。想像力の筋力を鍛える意味もある、青空に見えない宇宙を想像する癖は10代の頃からか。スカイダイビングの世界記録保持者の談によると、地上数キロの上空から放たれると見下ろすと太陽の照らす昼の地上、そして振り仰ぐと背後の空は星の輝く宇宙であったという。どれだけ想像できるか、その扉のひとつには言語もある。これはずいぶんと世界を開いてくれる。
なんて戯言を昔、友人らが置いていったヴェネズエラ産のラムのボトルとクロアチアのパスタスープを前に思ったりする。少しずつは読めるのだよ、書き込んである言葉たち。えっと、まあ酔ってます。