リバプールとかクアトロウェーブとか

pesce2007-11-22

古参じみた物言いはネットの世界/世代では煙たがられるものだろうと思いつつも、自分の通り過ぎたある時代の特権性は年齢のなせるものなのか時代のなしたものなのか。あまりに小規模あまりにジェネレーションが狭いもの、のようで書き留めるのもはばかられる気までする。けどネットと携帯が登場する直前、ロンドンやデトロイトの週間クラブチャートみたいなのを追って、面白そうな場所には調べようがないからともかく乗り込んで、行った先で知ってる人知らない人合流してタクシーに詰め込めるだけ人を詰め込んで移動しながら一晩で三つや四つのハコのハシゴが当然だった頃があった。'92〜94年初頭の短い間、私はそんな長い長い夜を過ごしていた。始発電車の緩やかな振動に、朝日の湧き上がってくる光に当時チャートを賑わしたUWのRezが被さるように響く、それが92年末から93年春までの気分。ProdigyのCharlyがそれに取って代わる93年前半、代々木公園や下北沢チョコレートシティ(レッドホットに変わっていたか)でのWATERでスニーカーを履いて弾けるように踊っていた。気の抜けたぬるいビール、スモークやタバコの煙にまぎれてハッパの匂い、手を挙げるでもなく派手な照明に照らされるでもなく訪れる絶頂に人の隙間から視線が合う誰かのかすかな笑み。
基本的にノードラッグ(=脳ドラッグ・笑)だった*1私や周辺の一部は音響とまだまだ単純なワイヤーフレームがぐるぐるしてたり景色が変わっていくだけみたいな映像を映し出したDJブースには時折、歓声を向ける程度で跳ね回ったり立ち尽くすようだったり、私のような指長族には楽しかった盆踊り(卓球踊りとも言うらしい)で指先で目に入る光を調節して文字通り忘我、同時にものすごく高速の思考に突入し(た様な気になっ)たりしていた。それも含めてダンスだった。とはいえまだクラブで遊ぶ人たちに、音楽ジャンルの垣根は低かったころでもありテクノという新参シーンの一部はそんなある種のストイックさを見せていたという程度で。93年の夏だったか、渋谷でクラブが出入り自由になるイベントがあり、確かインク、ケイヴ、Jトリップ、ルームあたりだったように思うが、公園坂あたりで小林径目当てにインクに向かう我々集団に反対側から知り合いの服屋のハウス組が呼びかけ、手を振り合い向こうはルームに向かうとこかなんかだったが、ジャマイカンナイトやJAZZIN'やWORLD CONNECTIONあたりで見知った顔が向こうにいたり。
ただ個人的に若さのなせるワザだったと思うことといえば、TGNG(トーキョーゲーマーズナイトグルーヴ)が関西で行われるというので、その前年のProdigy初来日@ジュリアナ時に芝公園レイヴで知り合った田中くん*2という少年を頼って18切符で大阪カフェブルーまで終電で到着して始発で帰京したことか。24時間テクノとかもう94年だったかしら。しかしやはり93年ごろの記憶で言えば代々木公園からツヨシさんの誘いで行ったチッタのトワイライトゾーン、ここで朝日の中でいいかげん8時間くらい同じ姿勢で動き続けている人々のなかから相変わらずノードラッグな私に”お使い”を頼む知人がいて、お駄賃ももらわずお使いを済ませて踊っているとオジサンに話しかけられ、何か聞かれているけどわからずにいるとドアの外に連れて行かれてそこにずらっと日本語を喋らないアジア系のスーツの人たちがいてびっくりしている間にツヨシさんが現れ向こうに「この子うちの子だから」と私の首根っこ引っ張って引きずり戻し「帰れなくなるから付いてっちゃだめだよ」などと注意された。だから岡キョンの『水の中の太陽』という短編なんかは思いっきりかぶるのだ。この辺(オカザキ)を言及し始めると、どうしようもなく自分の時代という特権にまさに突入しちゃうのだけれど『リバーズエッジ』にドン被りだった自分、当時遊んでくれた『ガールズブラボー』にでてきちゃう年上のお兄さん、みたいに彼女の作品に自分たちの肖像を描き写されたヒトビトは、それこそ「写真をとられると魂を取られますよ」というようにいつまで経ってもその肖像画に立ち返らざるを得ない。時代読みの正確さに、正直自分の歴史を吸い取られた気分になるのだ。
なんか前にも、このブログに書いたような話をしているような気がしてきたので夜も遅いしもうやめますが、書きはじめのきっかけは、当時よく一緒に遊んでいた「小さいコーヘイくん」の日記で渋谷シスコテクノ店などが閉店ハウス二号店に統合、というニュースを見た(コーヘイ君はKENGO→さんのとこでみた)のと、ちょうど復活WATER@王子3D(2002年12月)フライヤー(写真参照)を見つけていたからだったりする。オリジナルWATERはDJ FORCE, MIRROR, STRAWBERRY, ERA, LAPISさんあたりだったかしら。このフライヤーではHIME(確か双子の片割れ)さんがいたり、ライブでDUB SQUAD, ROVOなんかが入っている。なんなのかはまだ整理をつけられないドロドロと生気を持った何かのままなのだけれど、取ってつけたように言えば場の特権性が価値であったギリギリ最後の瞬間に渡来したミラーボールがあの時のテクノだった、ように、思う。

*1:「ドラッグやったことない奴にテクノは本当にはわからない」なんてDJか批評家か誰かの発言が取り沙汰されたのはそれこそネット以降だったっけ?

*2:大阪にいた彼と電話で話していた93年の夏、BGMはなんだと聞いたら「これfishmansっていう、ダブバンドや」と言われた。ちょうどAudioActiveがOn-Uからデビューとか久保憲司さんに「配れ」とフライヤー300枚くらい押し付けられた頃だったのでダブと言う言葉に惹かれクアトロウェーブでコール天、を買ったのだ