思い出話・続き

pesce2007-11-23

そんなことを書いていたら偶然YoutubeCharlyのライブ映像にぶち当たり、そのコメントからあの子どもの声のサンプリング元アニメを知る。"Charley Says Always Tell Your Mummy, before you go off somewhere"と"Miaow"(猫)ね。XLのAmerican Chapterに入っているMixが一番好きだったけれど、あの当時の独特な踊り方はいまだに身についていて数時間は当時のまま踊れる(が、翌日筋肉痛になるだろうところが年齢)。
それで思い出したのが'93年の6月26日とかじゃなかったか、Prodigyの初来日の一夜のことだった。日付まで覚えているのはこの直前に自分の当時の恋人が副幹事をやっていたインカレ(笑)の金集めパーティー*1がジュリアナで二日連続だったのに顔を出さなくちゃいけなくて、サークルに出入りしていた女子美の友人らに服を借りて出かけたからだ。元々日付はよく覚えるほうだけど。多分公式の記録ではそのあとの東京ドームでのエイベックス巨大ディスコと言うかなんかそういうイベントに来たことが最初になってるはずだった。
私は最初、WATERに連れて行ってくれた光山君に、ライブのあとに多分日本で一番最初の屋外Raveが近所で行われるから、と誘い出された。都市部での屋外Raveは当時ロンドンで流行っており、街角や公園に機材を持ち込んでイベントが行われ、イベント告知はフライヤーと口コミのみ、というものだった。日本では同じく口コミや、ファックスで前日に送りつけられてきたりしたらしい。当時の恋人はそこまでコアなイベントは興味ない、と言い私はなんとなくそこまでのイベントで顔を見ていたひとたちと田町駅や電車の中で合流しつつ数日前にボディコンを着てハイヒールでタクシーで乗り付けなきゃいけなかった道をスニーカーでてくてく歩いて向かった。
ジュリアナ前に着くと、30人ほどのTシャツに短パンやらスニーカーの子たちが道端に座り込んでいる。どうしたの、と顔を知っていた聖光学園の15歳の少年に聞くと「ドレスコード、とかいってドア前の黒服が入れてくれないんですよ」と。まあ確かに数日前に私もそういうイベントやってたしなぁ、と思いつつ見やると佐藤大さんが到着して黒服相手にすごい勢いで交渉している。近づいてみると、事前にチケット買ってあるのに入れないのはおかしい! ということを主張して理詰めで襲い掛かっていた(笑)。入り口を完全に塞き止めての抗議にちょっとして黒服が折れた、ので「入れるよ!」と声かけすると一斉に超カジュアル服の(Prodigyシャツやアナーキック関係が目に付いた)ガキどもがジュリアナに流入! その光景だけでも当時の状態だとめちゃくちゃ笑えたもので。フロアにはいつも通りで扇子を振っているようなギャルとオヤジとで適度に普段のジュリアナとして盛り上がっていた。「大さん、ナーイス」などと言っているうちにライブが始まり、フロアに流れ込むガキどもに他の客は奇異の目を向け、普段のある意味秩序ある(?)踊りと違うめっちゃくちゃなダンスがそこここで始まりギャルは逃げる。まだお立ち台に残っていたギャルをリーロイが捕獲し抱きかかえて扇子を振らせる、ふとステージを見ると大さんがよじ登ろうとしてセキュリティのアフリカ系でっかい奴に引き剥がされフロアにぶん投げられている。
30分ほどで喧騒は終わり、我々は噂の芝公園に向かうために脱出、到着すると本当に機材とDJブースが設けられており、客は30〜40人程度。15分もするとProdigyメンバーがバンで乗りつけ、ファンの子たちが駆け寄ってしばらく喋っていたけど10分もせずに奴らはゴールドに行く、と消える。それに連れて一緒に行ってしまった人もいたけれど概ね客たちは”illegal-Rave”と言う状況のほうに興奮を覚えそこに留まった。が、当初から言われていたにせよ30分を過ぎたあたりで「警察だ!」の声*2。パトカーが到着して客が一斉に走って逃げて、私も誰かに手を掴まれ一緒に走らされた*3。振り返りつつ見ていた限りでは、近所が騒音で通報したので来た、程度の比較的平和な取調べに見えたのだが。10分ほど全力で走らされて、どこかのマンションの階段に落ち着き一緒に走っていた子に「何でみんな逃げるの?」と呑気に聞くと、(多分気分を損ねただろうけど)「まあ持ち物検査でもされたらまずい人も多いんだよ」と言われ、ああなんか持ってる人が結構いたんだね、と気付く。みんなバラバラになっちゃったけど、ゴールドでも行く? など話して、結局その子と一緒に光山くんちに行ったような気がする。その男の子が、大阪でテクノイベントやってる田中くんだった。
そうやって私にとっての93年の大きな流れは決まっていき、バブルの残滓の中にいた例の恋人は「俺、会計士になる勉強を始めるから(当時早稲田の経済だったと思う)」と、音楽性の違い(笑)で別れることになる。イベントのフライヤーを大学や予備校のパンフレットスタンドに差し込んで行ったり、After Hoursという朝5時ごろから始まるイベントやそれが終る9時ごろからの更なるAfter hoursで昼まで残り、その後は知り合いのカラオケボックスでマイクにヘッドフォンかぶせてCDウォークマンでテクノをかけ夕方になると食事を取って、また別のイベントへ(メンバーはいつの間にか入れ替わったりしつつ)というような、ともかく今ここにある何ものかを全て見たい。これは他にない、いまの時代の何かだ、という気持ちだけは強くあった、それがユースカルチャーが生まれてこの方、何度も訪れている幻影だとしても。ともかくそれは94年からクラブシーンを離れていったのちも通奏低音として自分の基礎感性の一部としてしっかり組み込まれて人生の流れも変えていった。UWは、また別の機会で10年後になり私に直接影響を与える事になったけれど、ともかくこの年のことがなかったら私は教師を目指しただろうし出版にきていても書籍志望だったはずだ。行く大学も違っただろうし、いま周囲にいる人間はほぼ全員出会わなかったのじゃないかと思う。確実にそっちの方が安定した人生だったはずだけどな。

*1:幹部はこのパーティー一回やると各々車が一台買えるという、いわゆるパー券を売りつけるもの。下に行くほど高額になって高校生が3000円くらいのチケットを1万円とかで買ってやってきていた。ああいうのが横行していたバブル期末期の姿。大学生はO-barとかジュリアナ、高校生は六本木Erosとかスクエアビルあたりを借りてやっていた

*2:もちろん「ここは警察じゃないをー」と反射的に思う。が、声にする前に引っ張られた。

*3:といってもこのPVのオチみたいな気分だったんかもなとも。