祝福とか

pesce2007-12-21

大変お世話になった、というかまあともに戦ったというべきか、今年の前半によく足を運んだホテルの広報さんが無事出産したと言うニュース。先日HSBCプレミアの発表会で立ち寄りついでに顔を出したら受付嬢に「辞めました」と言われびっくりしていたところ別の広報さんが来て「いや突然に出産体制に入って急に休んだだけです」とのこと。まあ安心したわけですが、まだ公にしていない頃から知っていて(二ヶ月目くらい)プロジェクトが色々と込み入った事になったときには「全力でお守りします!」といった勢いで、向かいのビルから吹いてくる風の盾になったものでして。ともかく笑顔が素敵で美人でユーモアと知性のある非の打ち所ありませんといった女性で、同行者が「幸せになってもらいたい……」と打ち合わせの終るごとに呟いていたほどで。
ということで、出産祝いを選びに病人ふたりで街に出る。しばらく前に展示会で観ていたクリストフルのバースディスプーンを見に青山のパヴィリオンへ。案の定、写真のベビースプーンのバースディヴァージョン(リボン模様に生年月日と体重、時計の模様に時刻、裏に名前が入る)に一目惚れし、色々観て回るも同行者の意見そこそこに結局それを購入。うちで使っているアルビのものもあり、これはティスプーンとして大人になってからも使いやすい形だけれど、小さなうちから親しんでほしいこともありフィーディングスプーンの形にする。まあ、それでも使えるだろうし、女の子だと聞いているのでかわいらしい方がいいと。
「銀のスプーンを咥えて生まれてきた」という祝福は欧州のものだけれど、最近の自分の傾向もある。生まれ育った家や、幼い頃から慣れ親しんだ物や事柄を慈しむ文化がなくなっていくのが嫌で、というと大袈裟だが最近は(仕事柄一部の服などは仕方がないにせよ)長く使えるものかどうかが購入ポイントになっている。人に贈る物もしかりで、カードなどを別にすればすぐゴミになるものは滅多に選ばなくなった。祖母から譲り受けた宝飾品や茶道具、祖父のくれたボールペンなどしまい込みつつ、自分の生まれた家が遠くなく取り壊されることを思いつつ、そうなっていったような。
祖父の代に越してきたとはいえ大正時代の一軒家、築70年*1を越える家など今後そうあるだろうか、つまり生まれた家で一生を終える事のできる人はこれからほとんどいなくなるのだろうな、と思う。街並みや持ち物が記憶の貯蔵庫であれば、日本の都市は記憶喪失もいいところだ。記憶に囚われすぎるのもよくないが記憶のないのはなおまずい。
ま、贈り物などたいがいは自分の考えの一方的な押し付け*2なので、このくらいでいいのだ。と、自分なら欲しいというものを買っただけのことですが、当分自分には必要はなさそうなのが残念だな! ということで。はい。
♪幸せであるように、遠くで祈ってる という押し付けがましい感じが好きなんです。
以上、買い物の言い訳。

*1:池田室町の分譲住宅は明治から開始されたものなので、もしかするともっと古いかもしれないが。

*2:心理学的にも実際、贈物は関係性の要求だったり支配欲の表れなわけで