1995

pesce2008-01-17

05:46 am KOBE-OSAKA

ちょうど積読になっていた辻井喬の『ユートピアの消滅』(集英社新書)を読みきった連休前。母に渡す前に、軽く読み返した冒頭は、氏が93年の反エリツィンクーデターの現場に居合わせ未明の騒音の中での夢に、東京大空襲の記憶を蘇らせるシーンだった。氏と二歳違いの祖父の語ったシーンと同じであったが、こういった都市の瓦礫の中を行く経験は、現代の日本では多分一生に一度だって本来ないことなのだろう。人災と自然災害の違いはあれど暴力的な喪失が日常に降りかかった日が、私たちの世代にもあった。
あれから13年、私たちはブラウン管を通してあの震災現場や海の向こうでツインタワーの崩落する様、そして中東の国の市民たちが砲撃の中に逃げ惑う様を「リアルタイム」で見てきたはずだった。もちろん直接見てきた人たちも。
あの日、私は生まれた家に早朝から繋がらない電話に苛つきつつ、午後にようやく繋がった先の祖母が「えらいなことやったけど、まだ暗かったし寝なおしたわ」という呑気ぶり(家は二階の壁が崩れたことと、土台が傾いたけれどしばらく暮らす分には問題がない程度だった)に気を抜かしつつ、被災者の名前の列に知人の名前がないことを祈りながら数日テレビに張り付いていた。一夜にして全てがなくなる、脆い足元の現実が露呈される経験。縁の深い土地、縁の深い人々の上に起きた災害の経験だけでもせめて、この頼りない想像力の軸となるよう。
そうやって火を灯したキャンドルを置いたとき、帰宅中の友人より電話がありたったいま雪が降り始めた、とのこと。東京の積もりはしないだろう淡雪、燃えさかりはしないだろう小さな灯火。
あの光景を映したブラウン管は電話をしてきた友人のもとに譲られてあり、多分来週、我が家には新しいテレビが届く。ブラウン管の向こう側、という表現はここからも消える。記憶を、書き留める羊皮紙*1を手放さぬよう。

*1:そういえば最近、再々演? されているNODA MAP『キル』を観た。羊、草原、言葉とそれを書き写す手紙、流行り病と蜃気楼、蝋、そして聾。相変わらず計算づくの軽やかさが一番の魅力だ。