Snowy-day,

pesce2008-01-23

東京に雪が降る、いつの間にか私の中でこれはイベント性を帯びていて、その事自体に多少驚く朝。大阪にいた幼い頃は更に珍しいものだったはずの降雪。もちろん、積もった雪で遊ぶとか楽しみのもとではあったけれど。東京の郊外に住んでいた10歳からしばらく、冬はある日塀の上にうっすら霜が降り、その次に門の脇にあった柿の木辺りの地面に霜柱がキノコのように元気よく生え、水盤に薄氷が張るようになり、ある日、みぞれ、雪時雨、ぼた雪。雪がある瞬間から重みをなくし軽く風に乗り舞うようになると嬉しかった。季節があたりまえに共にあった。
温暖化なのか単に郊外だったからなのか今は判然としないけれど、ともかく渋谷区に居を移し一人暮らしをするようになって14年、徐々に日常から冬の「きざし」は消えて行ってそれに慣れて行った。氷柱や自然に張る氷は旅先だけのものになったし、樹氷や霧氷はいつ見たのが最後だったか(まあそれらはどちらにせよ住環境にはなかったけれど)。駅へ向かう車の中から見た代々木公園の斜面に雪が柔らかくあるのを少し嬉しく見やるけれど、そのすぐしたの路の上で炊き出しだか今日の雇用だかを求めて並ぶ中高年の人々を見てとても寒そうだと思う。地下鉄に降りて銀座の街に出てくれば、冬の雨が降ったあとという程度の街並にコートの前を閉め職場へと急ぎ、帰宅する頃には今朝の景色もすっかり忘れるほどただの冬の日がマンションのエントランスにある。ここ数年の傾向としてことさらに季節の行事や徴に反応するのは、抵抗なのだと思う。
生まれた家の庭にあった、冬の植栽は南天、姫椿、ヤツデ、万両、紫式部リュウノヒゲ。家の裏手がダイハツの保養所かなにかだったらしく池などもあり夏にはウシガエルが鳴きミミズクが鳴き、アオダイショウ屋根瓦に這い、イタチが駆け抜けた。東京に移って来た時の家には柿の木と小さな竹林、クマザサ、山椒、紫陽花あたりか。初夏に街のどこかにホトトギスが立ち寄り、カナブンが飛び自宅のベランダ前にはジョウビタキ四十雀コゲラメジロくらいの小鳥がやって来た。現在の暮らしにそれらは関係がなく自分のものである必要もなく、自然と捨て去って来たものだとしても、わざわざ書き記す事で人生に記憶として着床しなおす。経験や感覚を高く張り巡らせようとして、その根が枯れている事のないように。そういう今日の記述の理由。