津村耕佑 個展[夢神/MUZIN]

pesce2008-06-20

FINAL HOME津村さんの個展、初日がシャネルと重なってしまったのでクロージングパーティに足を運ぶ。イベントとしてはToastyとのコラボパフォーマンス。到着した頃にはちょうどほぼラッピングし終わっていたのだけれど、ピンクの包装紙でウサギ耳みたいなものがついたトーストがシャンパングラス(これも包装済み)を持って作品になっていた。パフォーマンス終了とともに多少まばらになった客足のおかげでゆっくりと作品を見る。そこに、同じく滑り込んできてパフォーマンスには間に合わず……な、遠山さん、東泉さんなども。
津村さんは多分、TDBのころ(2003年とかの国連大学でのイベント)に知り合って、以来時々飲む。
といったお付き合いなのだけれど、学生時代にFINAL HOMEというブランドに持っていた漠然とした
憧れというか世界観への共感みたいなものが、どーも飲んでいると繋がってこない。
悪い意味じゃなく*1服飾デザイナーという概念からは、話す内容もアイデアのぶっ飛び方もちょっと外れている。
服みて「あ、かっこいい、それどこのですか」「俺のとこのだよ」とかで
思い出す程度に外れている。
今回の展示は基本的に既製品の、津村さんの好きなもの、モチーフ(怪獣とかおもちゃとか美女とか)を
ゴブラン?凝った素材の布でぴっちりと包み込んでいる。
フェティッシュなものかというとそこからも、また少しずれている。
そうも取れるけど、それをいうとモチーフ自体にもその匂いはある。けど違う。



帰ってから読んだ津村さん自身の言葉ではこうあった
 「過去、そして今でも私を魅了し悩ませ続けるイメージは、時にフィギュアとして表れ、
 あるいは時にセクシーなピンヒールに姿を変えて表れる。
 それが複雑に絡み合い、予期せぬ場面で出現しては消えていく。
 私は、ようやくその正体を暴き、生け捕りにする方法を思いついた。」
平面の作品も。
生け捕る、逃げ去るイメージを。
「包み込む」という言葉は、一見、母性的で優しいような印象があるし、
実際、母親や女性が男性や子どもに、
そして男性や子どもが女性や母に向けて求める場面はままある。
しかし、それは津村のこの言葉のように本来(包む側の)狩猟である。
攻撃と守備。プロテクション、サヴァイヴ、人間にとって最小単位の家である服
=最後の家「FINAL HOME」はブランドコンセプトだ。
機能とデザイン性とアート性のバランスは危ういようで、
常に強靭な意識が貫通している。
夢神MUZIN=無尽蔵なイメージを狩り続けたコレクション。
この日のコラボ相手のToastyはラッピングされ終わった途端にハチ公前まで走り出て、
道行く人に撮影させつつ戻ってきたり、ウサギ型がいけなかったのか
キャッチアンドリリースが早かったですが(笑)。

駅前から帰還、津村さん、トースティ、遠山さん

*1:別に明け方呼ばれて行ったら渋谷の伝説の(?)ゲイバー『たかし』で一人、歌謡曲の振り付けをして踊っていたり、したとしても。寂しがり?と聞かれたりしても。ナイスダディ、なとこもなんとなく突き抜けた俺道があっていいと思う